はじめの一歩
仏 法 入 門
 私の第一歩は、初めて「般若心経」をお唱えした時でした。
なにしろ気恥ずかしくて冷や汗はかく、お経は詰まる、
目は霞んで字もよく読めない、
とにかく悪戦苦闘した事を覚えています。
 一緒に唱えてくれた方は、随分ゆっくりだったそうですが、
ついて行く私にとっては特急のような速さに思えたものです。
でもその後で、
 「あなたの一生懸命の汗は何よりの供養です」
と言われ、
何やらとても善い事をしたような、何とも言えない、
不思議な清々しさと、静かな感激は今も忘れられません。
今にして思えば、
その時が、私にとっての貴重な
「はじめの一歩」であったと思います。



入門
その1
人はなぜ悩むのか?

煩悩とは? 「人はみな悩み上手にできている」とは何かの歌の歌詞ですが、仏法では、
「悩みのもとは煩悩である」
とされています。
では、その「煩悩」は何から生じるのでしょうか?
一口でいえば、物事の本質を取り違えるという
「重大な取り違え」から起きてきます。

取り違え
とは?
「有る」ものを「無い」と思い、
「無い」ものを「有る」と思う取り違え。
「楽」を「苦」とし、「苦」を「楽」とする取り違え。
「喜ぶべき」を怒り、「怒るべき」を喜ぶ、等々。
物や形に囚われて、その起因や心因と、そこに到る本質を見誤る等の取り違えをいいます。

思い込みを招く五蘊とは? 現象に囚われ(色)、それを真実とし(受)、誤った想いを巡らせ(想)、その想いに従って行動し(行)、正しいものと思い込む(識)、といった一連の心の作用が五蘊といわれるものです。
そして、思い込みの考えに合わないと、怒り、悩み、苦しみ、悲しみ等、次から次へと起きて来て、いつまでも悩みが続きます。

当たり前に「第一歩」
しよう!
始めに人あり真理あり。
人は此の世を当たり前に生き、当たり前に真理を目の当たりにしています。
でも、殆どの人は、その本質を、当たり前のように、見つめようとはしません。
知ろうとする方が、真の当たり前ではないでしょうか。
「はじめの一歩」は、誰もが既に歩んでいるはずです。

合  掌